丸兆 / MARUCHO


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商品名丸兆 / MARUCHO
製造元久保田製紙株式会社静岡県富士市
規 格114mm x 65mシングル
備 考1999年 東京都
在 庫× (out of stock)
モチーフ黒メイン 富士山 再生紙 recycle gray
素材
販売種別普及品
これを手にした日の事ははっきりと覚えている。1999年9月30日のことだ。
その日、私は中野にある東大の研究所で試料の処理に当たっていた。

ちなみに基礎科学における前処理というのは恐ろしく地味な作業である。
ちょっと手先が器用な中学生なら十分に出来るであろう単調な作業を
学士や修士、場合によってはポスドク(30歳近くって事だよ!)にもなって
朝から晩まで延々と続けなければならない。
それでいて少しでも手順を間違えると丸ごとパァになるというオマケ付き。
しかも、こう言うのに限ってどこでダメになったか最後まで判らないものが多い。

さて。
この時の試料は数億円規模のプロジェクトで得られた貴重なものであった。
(もちろん今回の事業仕分け対象だ!)ちなみに分量もあった。
そのため各組織に「動きの良い下っ端を出せ」と辞令が出て自分も駆り出された。
そんな訳で額をつきあわせ手を動かす彼らは この場を共有する仲間でありながら
ライバル機関の人間でもある。

エゴイスティックに、しかし一丸となって作業は進む。
この不毛な単純作業によって互いの将来の幾ばくかを負うことになると思えば。
(ま、結構和やかにやってたけどよ。)
だから、半ば密室と化した部屋の片隅でささやかにテレビがついていなければ
我々がその事件を知るのはずっと後になってからのはずだった。

「トウカイムラデ リンカイジコガ ハッセイシマシタ」

まず誰かが反応し、追って皆の視線が一斉に揃った。
我々はその道の専門ではなかったが、報道の要旨はその一言さえあれば足りた。
詳細な反応を説明できずとも、原理の概要は自然科学を修めた者の一般教養だろう。
みな事の次第を推してはいるものの、なかなか反応できずにいる。
リアクションに必要な『場所と規模の詳細』が明らかでなかったから。
ニュース性は起爆剤、各種の条件は反応の方向を示す係数であるから、
材料が揃わないうちに闇雲に騒ぐのは結果として不幸を招く。

やがて続報により東海村の地理を知った。…が、その前に事態は察せられた。
異質な気配を感じて振り返ったとき、筑波大チームの血の気が引いていたから。
しかも、その中の一人が東海村の住人なのだという。
我々は本来するべき仕事を中断した。実験室の隅の小さなテレビにかじりつき、
ブラウン管の向こうに溢れかえる感情論を排除しながら必要な情報を拾い上げる。
やがて彼の家族はどうやら安全らしい(確率が高い)というひとまずの結論を得た。
ほどなく作業は再開されたが、飛び込んでくる新情報は合理性を疑うものばかりで
日本の教育制度のあり方だとか、組織の社会性だとかをいろいろと考えさせられた。

当時、日本は科学技術立国を目指すとか何だとか騒がれていたが
高度な技術を駆使する組織でさえこんなものなのだ。
しかしそれも氷山の一角に過ぎない。
見えないものに対する恐怖から前に進む道具が教育であるとするならば
むしろ事態に巻き込まれる市民や報道する側にとってさえ、科学はこんなにも遠い。
数式や試験管を振るだけが科学ではない事を理解するものはどれだけいるのだろう。

科学は科学を生業とするものだけに必要とされるのではない。
ヒトが経験する全ての文化的段階において生きる権利をもぎ取るための武器である。
よく「小さな社会に生きる上でそのような飛び道具は必要ない」という人がいる。
だがむしろ科学は肉弾戦にこそ必要な柔軟で使い勝手の良い武器であり防具なのだ。
社会が後天的に獲得した言語能力や交渉術こそ飛び道具と言える。

確かに飛び道具は強力だが、一度手にすると他の選択肢が見えなくなる。
それでいて訓練されたものにしか使いこなせないし、使える間合いも実は狭い。
鍛えられた者ほどシンプルな道具を好むのは、決してストイックだからではなく
それが自分にとって最も取り回しの利く状況を支えているからに他ならない。

この、リアルな富士の稜線を眺めるたびに、
あの日に感じたこの国の病巣と自分なりの決意を新たにするのだが
このたびの事業仕分けとやらによれば、我が国に科学力は無用の長物なのだそうだ。

ハァ?基礎体力抜きにして、どうやって国を運営すんの?
諜報で乗り切る?アメリカやEUだって些細な事で出し抜かれるのに?
日本人にスイスやバチカンと同じことなんか出来ないに決まってんだから
教育には力を入れなきゃダメなんだよ!
あとは文化振興でしょ!地味に出来る事いろいろあるでしょ。
放課後の校庭開放するだけでも結構違うぜ。簡単な事で世界は変わる。

小さい政府とか言うなら税制見直せばいいじゃん!
寄付金も損金がどうのとかケチケチ言ってないで税額控除にしちゃえよ。
NPOの拝金化?最低限の金の心配して何が悪いんだよ!
金や能力も含めて有限の資産の中で動くのに思惑ない方がキモいだろ!
全部オープンにして全力で奪い合えば良いだろう!それが民主主義じゃないのかよ。
それでも、どうしても、網からこぼれる人間の背中を押すのが正義だろう!

何故この国は金にフタをするのだろう。
ただ目の前の幸せのため頑張るという単純な生き方をさせてくれないんだろう。
時間と能力と金の相関関係を真剣に議論すれば、むしろ選択肢は増えるのに。
複雑な系を理解するため物事を単純化しすぎるとかえって実情から乖離するのに。
一人一人が自分の言葉で考えて動けば、かすり傷で済むかも知れないのに。
誰かのファインプレーは大事だけど「あたりまえ」のレベルを上げる方が簡単。

みんな自分を好きになろう。それで、みんな幸せになろう。
そのかわり小さな傷は増えるけど、別にそんなに悪いことじゃない。



もー!こんなに面白デザインなのに全然言及できなかったじゃん!


■■■ 2010-01-18 追記 ■■■
トイレットペーパーの話じゃないし、まきコレ的にはどーでもいいんですけど
「理系」という言葉について、世の中に結構誤解があるので持論ぶちまけ。

正直なことを言えば、人を「文系」「理系」で括るのはクソくらえだと思っている。

あえて分けるとするなら「論理的な人間」と「非論理的な人間」がいるだけだ。
ただ、一見「非論理的」な人物が「非言語体系において論理的」であることがままある。
そしてこの「言語に依存しない論理性」は、しばしば理知的であることを凌駕する。
つまり、一般的論理性の不備は社会的に劣っていることと同義ではない。

やはり人を一本のパラメータで俯瞰することは不可能であるのか?
そうと言えるし、そうでもない。近傍により適した表現は存在している。
要は「自己の論理に整合性があるか否か」を問うているのだ。自己矛盾の多寡と言っても良い。

人が自分と自分の仕事に求道的である限り、その出自にかかわらず賞賛されるべきだと思う。
その限りにおいて、自虐的に語る文理分類のほぼすべては容易に一蹴されるだろう。

なんか、この民主党内閣の側近が「理系だから数字に細かい。」って言ってるのを見て
猛烈に腹が立ったので書いておきます。それ理系とか関係ねーし!
分類って便利だし、話を切り分けないと議論が進まないからやるんだけど、
人のあらゆる心情のひだを切り捨てる暴挙だということを理解してやって欲しい。

ほんと、非論理的で迷惑です。


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